投手の「肘下がり」は肩や肘の障害の原因となることは広く知られています。野球選手にとって大きな課題です。この現象は、世界のトップレベルのメジャーリーガーや日本のプロ野球選手にも多発します。日々、投球動作を熟知したコーチに常に見守られていても、肘下がりは起こってしまいます。どうして防げないのでしょうか? その原因は、投球の技術ではなく、投手の身体に起こるある「異変」からはじまるのです。
肘下がりを防止できない現実
投手の神経の癒着が肘下がりを作るという問題は、野球選手にとって深刻な影響を与えることがあります。肘下がりによって、肩の外旋が制限されてしまうため、肘に負担がかかります。その結果、投球の精度や速度が低下したり、シュート回転して打ちやすくなったり、そして何よりも肘や肩のケガのリスクが高まります。
肘下がりが好ましくないことは、野球に携わる指導者やセラピスト、ドクターにも広く理解されています。プロレベルでは、常にコーチが投手を見守っており、フォームの変化を発見できる環境にあります。もちろん、経験豊富なトレーナーの元で、肩の機能を改善するトレーニングにも年間を通じて取り組んでいます。
しかし、2023年時点のスポーツ医科学を結集しても、肘下がりは撲滅できず、またその結果生じる靱帯損傷などの悲劇も後を絶ちません。トップレベルの選手において、なぜ肘下がりが起こってしまうのかを分析する必要があるのです。
投球フォームの習得とは?
人の動きは,脳からの指示によって作られる「随意運動」と、脳の中で自動的に実行される「不随意運動」との組み合わせで起こります。腕を前から上げるという運動は随意運動、腕を上げるときにバランスを保つために重心を少し後ろに移動するのは不随意運動(自動的に行われる姿勢調節)ということになります。
投球動作も、意識して行う運動と意識しなくても自動的な運動との組み合わせで起こります。アスリートは、これらを巧妙に使い分けながら理想に近い動作を実現し、それを繰り返し実行できるように学習していくのです。
投球フォームをかき乱す筋肉の「張り」
それでは、いったん学習した動作が変化していくのは何故なのでしょうか?
動作に変化をもたらす理由の1つが「筋疲労による柔軟性低下」です。筋肉は疲労すると硬くなろうとします。筋肉痛を繰り返すことでも柔軟性が失われていきます。それを防ぐために、毎日の献身的なストレッチングが必要となります。
筋肉の張りは投球動作に影響を及ぼします。キャンプ中などに投球動作を繰り返し、脳と筋肉が一定の動作を学習するとします。キャンプ中も疲労が溜まるので、それなりに筋肉の張りがある状態でフォームをつくりあげていきます。そのときの身体の状態・柔軟性の状態において、一定の動作を脳と筋肉に記憶させていくことによってフォームを固めていくことができます。
しかし、シーズンに入り、新たな疲労が蓄積されて、キャンプ中とは異なる筋肉張りが生じます。この状態において、新たに最適な投球動作を再学習しなければなりません。しかし、再学習には「キャンプの投げ込み」に代表されるように、数多くの投球の反復が必要になります。1つの筋肉が張っているからといって、それに合わせた新しい投球フォームを再学習することは、現実問題として不可能なのです。
つまり、筋肉の張りは随時変化し、そのたびに投球フォームには僅かな変化が生じてしまいます。シーズンを通じて活躍する選手とは、このような調子の波をうまく処理できるという能力に他なりません。
筋肉の「張り」への対策の間違い
強いマッサージや、ボールやローラーでゴリゴリとほぐす行為は、一件良さそうですが、少なからず筋肉に炎症を引き起こします。それを繰り返すことで線維化と呼ばれる変化が筋肉のスキマ(筋膜)に起こり、その結果筋肉どうしが癒着します。ほぐすことに熱心な選手ほど,取り返しのつかない、しつこく、深刻な影響をおよぼす癒着が作られていくのです。
筋肉の癒着は、背中(肩甲骨まわり)、脇の下、首、胸、腕など広範囲に起こります。これらは「張り」としてマッサージなどで対応される場合が多いと思われます。しかし私たちはこれを関節の「拘縮」と位置づけています。なぜなら、癒着を伴う筋肉の張りは、癒着が解消されて再び滑るようにならない限りは回復しないからです。
マッサージで筋肉が柔らかくなると,ちょっと柔らかくなって、ほぐれた感覚が得られます。筋内の水分が抜けて、筋膜が弛むと筋肉が柔らかくなります。しかし、再び筋肉を使うと水分(血液)が入ってきて筋膜が張ってしまうのです。
筋肉が「滑ること」と「柔らかくなること」の2つが達成できて、本当の意味で筋肉はほぐれたと言えます。しかし、ゴリゴリと潰すだけでは「滑り」の獲得がまったく得られません。
神経の癒着と肘下がりの関係
首から手に向かう神経が束になっている部分を腕神経叢と呼びます。これは鎖骨の下から肩の前ににかけて存在します。肩の前でばらけて、一本ずつの神経として腕から手へとむかいます。
神経は神経鞘とよばれるファシア(結合組織)に包まれています。これは筋膜と似た構造で、本来は周辺の組織と滑るように作られています。しかし、神経や筋肉を包んでいるファシアが癒着すると、互いに滑らなくなってしまいます。詰まり神経の癒着が起こるのです。
肩の前を通る神経は、小胸筋や広背筋といった肩の可動域に影響を及ぼす筋肉と癒着しやすい位置にあります。疲労すると,これらの神経と筋肉が癒着して、可動域が著しく制限されてしまいます。
上の写真は、肩関節内旋位から外旋に切り返そうとしている場面です。このとき、肩の前の腕神経叢やそこから分かれる神経が癒着していると、ワイヤーのような神経が肩の骨に引っかかるため、スムーズに肘を上げられなくなってしまいます。これは、正しいフォームを意識しても修正できません。なぜなら、脳からの指令で神経の滑走性を改善させることが出来ないからです。
このような変化は、シーズン中に突如として起こります。ときには、試合中に、あるとき突然起こることもあります。変えるつもりがないのに、腕の動きが勝手に変わってしまうのです。
神経の癒着を予防するための方法
投手であれば、少なからず腕の張りを感じながら投げています。筋肉の張りだと勘違いしている場合が多いのですが、精密触診をその張りを分析すると、実は尺骨神経、正中神経、橈骨神経など肩から手に向かう神経の癒着が原因であることが多いのです。
これらの神経を含めて筋肉をゴリゴリと潰すとどうなるでしょうか? 神経の炎症が起こり、さらに癒着が強くなります。つまり神経の癒着を伴う筋肉の張りに対して,神経を潰すようなマッサージやほぐしは「悪化因子」なのです。
このような神経の癒着を改善し、予防するためには、適切なストレッチや筋力トレーニングが重要です。ストレッチは神経を過度に引っ張らないように、ゆっくりと、時間をかけて行うことが重要です。神経が滑ると、ピンと張った感覚がスッと消えていくのがわかります。その感覚が得られるまで、焦らずにじっくりと伸ばして行くことが重要です。
ストレッチでも改善しなくなった癒着は、神経を一本一本たどって癒着を剥がす「組織間リリース」が必要となります。これを実施できるのは、リアライン・イノベーション研究会によって認定されたジョイントヘルスセラピストです。
神経が滑るようになったら、可動域の限界までをつかった軽い筋トレが有効です。イチローさんが取り組んでいた「初動負荷」トレーニングは、まさ滑走性を保つために極めて有効性が高いと思われます。
しかし、神経や筋肉が癒着している状態では、その効果も得られにくくなります。まず癒着を解消し、その上で広い可動域を使った軽い負荷のエクササイズを行うのが正しい手順です。
投球フォームの改良
このような神経の癒着で起こる肘下がりを防ぐ方法の1つが、フォームの改良です。上写真の場面において、肘がもう少し曲がっていると神経のうち正中神経や頭骨神経が弛みます。ときには尺骨神経も弛む場合があります。つまり、内旋から外旋に切り返す場面で、神経の緊張による肘下がりが起こりにくくなるのです。
先シーズンあたりからダルビッシュ選手や大谷選手が、コンパクトなテイクバック(コッキング相)を採用して話題になりました。神経の癒着による肘下がりが起こりにくくなるという意味で、このフォームの変更は合理的だと思います。
しかし、テイクバックを変えても、フォロースルーで筋肉が疲労するため、この記事で述べたような神経の癒着による腕の張り自体は防げません。神経の癒着を防ぎ、その投球フォームへの影響を最小限とするためには、日々のコンディショニングとフォームの最適化の両面から、絶え間ない努力が必要となるのです。
まとめ
神経の癒着が投球フォームに影響を及ぼすことをご理解いただけたでしょうか? その影響を最小限にするためには、
・日々の丹念なストレッチ
・ストレッチでは改善できないときの組織間リリース
・可動域を最大限使うエクササイズ
・投球フォームの改良
・神経の異常の早期の検出
が重要となります。
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